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第一話
九谷焼を再興した
“陶石(=ルーツ)”を訪ねて
陶石から絵付け、そして料亭まで。九谷焼がいかにして生まれ、そして使われてきたか。KUTANism全体監修・秋元雄史が、自らその現場に足を運び対話する中で、九谷焼を再発見していく連載シリーズ「秋元雄史がゆく、九谷焼の物語」。
第一話は、九谷焼をつくる粘土の主原料であり「この陶石の発見がなければ、今日の九谷焼業界はなかった」といわれる「花坂陶石」の採掘現場を訪ねます。セミが鳴きしきる細い山道を進んだ先に突如として開けたその場所は、地層が露わになった断崖の下に白い石がゴロゴロと転がった、どこかこの世ならざる空気感。
また、花坂陶石が採れる山のすぐそばには、かつて“再興九谷”の時代を牽引していった名工を多数輩出した「若杉窯」があった若杉町があります。あらゆる意味における“今日の九谷焼”のルーツを、石から探ります。
案内してくれた人
宮吉 勝茂
さん
小松市吉竹町にある九谷焼窯元「(株)宮吉製陶」の2代目であり代表取締役。花坂陶石の原石山管理を行う「石川県九谷窯元工業協同組合」前理事長を務め、現在は「CERABO KUTANI 」館長。
イマココ
イマココ
花坂陶石の原石山へ。
石に見る九谷焼のポテンシャル。
窯元組合が管理する原石山へ。(※通常は一般の方は入れません)
宮吉
:今から向かうのが花坂町の「アザラ谷」といって、1817年に本多貞吉によって花坂陶石が発見された山です。 実は1811年に、近くの「六兵衛山」で最初に陶石を見つけているんですが、ここのはあんまり質が良くなかった。
秋元
:場所によって陶石の質というのは違うんですか?
宮吉
:違いますね、やっぱり。
秋元
:じゃあアザラ谷の陶石は質も量もよかったんですね。
宮吉
:
はい、アザラ谷が発見されたから、今日の九谷焼業界があるといっても過言ではないです。
古九谷の発祥である加賀市にも、大日山などにまだ陶石はあるにはあるのですが、山深くて採算が合わない。それに陶石自体にもちょっとクセがあって、焼くのに工夫がいるんです。
アザラ谷に到着。
秋元
:他の磁器産地の陶石と比べてどうなんでしょう?
宮吉
:花坂陶石はどちらかというと鉄分が多くて、焼くと少し青っぽくなるのが特徴ですね。有田焼の天草陶石のような “白さ”とはまた違います。松原新助(※)が「食器やっていても、有田には勝てんから」と、全国の彫刻師を呼び寄せて置物を始めたのはそういう理由やとも言われています。
(※)明治に松原新助窯を築き、素地製造の専門窯元として独立。現在の九谷焼独特の生産体制の分業の基礎を築いたとされる人物。
秋元
:伊万里焼と比べたりすると、粘土に粘りがありますよね?
宮吉
:
ええ。陶石そのままで粘土にできるくらい、つくりやすいです。
昔は山から採ってきた陶石単味で粘土をつくっていたほど。蛙目(がいろめ)粘土や木節(きぶし)粘土といったものを足すようになったのは昭和入ってからですね。今でも、ろくろの挽きやすさでいえば、九谷の陶石が日本一だと私は思っています。コシがあるので、手捻りにしても、型起こしにしても良い。
九谷焼の主原料である花坂陶石
宮吉
:こういう白いのが良い陶石ですね。赤っぽいのは酸化してしまったもの。
秋元
:わ、意外と簡単に手でパリンと割れちゃうんですね!
キメも細かいし、確かに粘性もありそうだ。
宮吉
:ちょっと上ってみましょうか。見てください、ここに狸掘り(※2)した跡があるんですよ。昔の人はどうやって鉱脈が分かったのでしょうね、こうやってピンポイントで陶石を見つけだしていたんです。
(※2)鉱山や炭坑で、品質のよい石が出そうな部分だけ掘ること。
秋元
:すごいな!狸の穴みたいだから“狸掘り”っていうのかな。
狸堀りの跡。
宮吉
:こういうところから掘り進めて行って、そのうちに坑道になって。最近はもうシャベルカーなどの重機ですけどね。陶石はやわらかいので、重機で十分なんです。戦後はこれに発破(※3)かけて採っていた時期もありましたけど。 昭和40年代くらいまでは、一軒一軒零細に、各窯元で粘土もつくっていたんですよ。よくやっていたと思います。そのあたりからどんどん忙しくなって、窯元は製品をつくることに専念するようになるんです。
(※3)岩石に穴をあけ、火薬を仕掛けて爆破すること。
秋元
:あぁ、そこで分業化するんですね。産業としてのピークを迎えているのって意外と近代なんだなあ。
九谷焼と聞くと“古いもの”という印象を受けますが、ついこの間まで産業として盛大だったということですよね。
宮吉
:このアザラ谷に一番まとまって陶石があったんです。1817年に発掘されてからずっと掘って、今はもう掘り尽くしてしまって山の形も変わってしまいましたが。ここから鉱脈は続いていて、現在は「木和田(きわだ)山」という山で掘っています。そちらにも行ってみましょう。
車で数分先の木和田山へ。採掘の断面が露出していて迫力が。
今日の九谷焼に使用されている陶石の多くはこの山から。
秋元
:すごいなこれは!ここの陶石は掘り尽くしてしまうということはないんですか?
宮吉
:ここはあと30年くらいですかね。瀬戸あたりでは主原料である木節粘土や蛙目粘土の良いものが枯渇してきていたり。あちこちの産地で採算が合わなくて業者がやめてしまうということが起きてきています。 でも
花坂陶石においては、この山を採り切ってもまだ次に「新花坂」がある。そこにはあと数百年分の陶石が眠っていますからね。
「新花坂」と呼ばれる山。
秋元
:なるほど、陶石という視点から見たら、九谷焼が一番ポテンシャルがあると。なぜなら、少なくとも数百年分はつくれる“石”が確かにあるんだから。 ちなみに、新花坂の陶石はどうやって見つけたんですか?
宮吉
:ボーリングですね。
秋元
:そっか、現代はボーリングだ。昔みたいに狸穴を掘ったりしなくてもいいんですね(笑)。
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